本ページはプロモーションを含む場合があります
本ページはプロモーションを含む場合があります

【新選組を行く】ゆかりの地 弘道館

新選組

NHK大河ドラマ「新選組!」第13回「芹沢鴨、爆発」にて、放送の最後に「新選組を行く」で紹介された弘道館に行ってきました。

この記事では弘道館のインフォメーションや実際に最寄駅から歩いたルート、ゆかりの地を巡った様子などをドラマの感想を交えながら写真付きで紹介します。

動乱の幕末。その歴史の一端を垣間見てはいかがでしょうか。

長身で恰幅がよく豪胆な性格だったと伝えられる芹沢鴨。しかしその生涯は多くの謎に包まれています。生まれは現在の茨城県玉造町芹沢の郷士とも、北茨城の神官の出だったとも言われています。当時、水戸藩は徹底した尊王攘夷の教育を行っていました。その影響を受けた芹沢は後に天狗党と呼ばれた過激な攘夷集団に身を投じました。しかし意見の対立から同士3人を切り捨て投獄されてしまいます。死罪を覚悟した芹沢は小指を噛み切りその血で「自分の死後も水戸の攘夷思想は残る」という意味の辞世の句を書いたと言われています。後に赦された芹沢は酒色に溺れ破滅的な日々を送りました。新選組に自らの死に場所を探していたのかもしれません。

NHK大河ドラマ「新選組!」 新選組を行く「芹沢鴨と水戸、玉造」

インフォメーション

弘道館

・入場料:大人 400円 小・中学生、シルバー(70歳以上)200円
・住所:〒310-0011 茨城県水戸市三の丸1-6
・開場時間:9:00-17:00(2/20~9/30)9:00-16:30(10/1~2/19)
・休業日:12/29~12/31

アクセス

・JR「水戸」より徒歩8分

注意事項

・館内は土足禁止です

目的地までのルート

実際のルート(写真付き)
  • STEP1
    水戸駅

    北口から表に出ます。

    早速、水戸のご老公一行がお出迎え。

    正面に伸びている歩道橋の突き当りまで歩いて行きます。

    一定間隔に梅の木が植えられてます。さすが梅で有名な水戸ですね。

    歩道橋の突き当りまで来たら、左手側の階段を降ります。

    真っすぐ歩いて行きます。

    T字路になっているので、ここは右に行きます。

  • STEP2
    旧銀杏坂

    坂道を上ります。旧銀杏坂という名前の坂らしいです。

    旧銀杏坂を上り続けます。

  • STEP3
    水戸学の道

    坂を上がりきったら横断歩道を渡って右に行きます。

    道なりに進みます。この弘道館を中心とした周辺地域の道路は「水戸学の道」という愛称が付いているそうです。面白いですね。

    愛称はなんでも江戸時代の水戸藩において成立した「水戸学」から、2017年に地域住民の強い要望で名付けられたんだとか。

    おっ! 左側にそれらしい建物が見えてきました。

  • GOAL
    弘道館

    東京品川から約2時間。弘道館に到着です!

弘道館

弘道館は徳川斉昭(とくがわなりあき)が推進した藩政改革の重要施策の一つとして、天保12年(1841年)に創設された旧水戸藩の藩校です。

正門(重要文化財)。

この正門は藩主の来館や正式な行事の際にのみ開門したそうです。

正門の脇にある別の門を潜ると…。

何かが家屋の中に鎮座しています。

…これは、フクロウ? とひょうたん??

なるほど。番所ですか。

創建当時の建物とは思えないほど、綺麗に現存していますね。

受付で入場料を払い、小さな扉を潜るとそこには…。

弘道館の政庁(重要文化財)がお出迎え。

政庁は弘道館の中心的な建物で、試験や諸儀式が行われたそうです。

おお、政庁を守る門番のように、入口の左右に立派な木が立っています。

左側には「御手植の黒松」。

右側には「左近の桜」。

季節は2月だったのでほとんど蕾(つぼみ)でした。満開も見たかったですね~。残念。気を取り直して弘道館の中に入ってみましょう。

入口には「徳川斉昭公 七郎麻呂慶喜公像」がありました。そうです。江戸幕府15代将軍であるあの徳川慶喜、そのお父さん(斉昭)がこの弘道館を作ったんです。

東日本大震災の影響がこんなところにも…。歴史的建造物は常に災害との戦いでもありますね…。

鳥瞰図(ちょうかんず)もしっかり元の位置に掲げられていました。復興に関わった方々に感謝いたします。

靴を脱いで玄関を上がると、いきなり大きな広間がありました。諸役会所です。床の間には大きな掛け軸があり「尊攘(そんじょう)」の文字が。動乱の幕末、ここで「尊王攘夷」についていくつも議論がされたのでしょうか。二文字の力強さが当時を物語っているようです。

順路に沿って進みます。廊下も板張りではなく畳敷きなんですね。

畳の上はなぜか落ち着く~。日本人のDNAに刷り込まれているのかな?(笑)

お、団体ツアーの人達にスタッフの方が何やら説明していますね。

政庁正席の間です。さっきの諸役会所と同じくらい広いです。掛け軸は弘道館記碑拓本。

この間では藩主が臨席して試験や諸儀式が行われたそうです。

新選組の初代筆頭局長、芹沢鴨もここで試験を受けたのでしょうか。ちなみに大河ドラマ「新選組!」での芹沢鴨初登場シーンについては、「桜田門」の記事で紹介しています。ご興味がありましたらどうぞ。

芹沢鴨は水戸天狗党の出身で、近藤達と壬生浪士組(芹沢曰く精忠浪士組)を結成し、その筆頭局長となります。大河ドラマ「新選組!」では佐藤浩市さんが演じており、ドラマ前半のキーパーソンと言っても過言ではないくらい重要な役割でした。ある意味、主役の近藤勇よりも目立っていたような(笑)。

性格は粗暴で傍若無人。浪士組が京に上る際に近藤と再会するも、旅の道中、近藤の宿割りに腹を立てて宿場の往来で大きな焚火を起こし人々を恐れさせたとも言われており(信憑性は不明)、序盤からインパクト全開の人物として描かれていましたね。

お? 弘道館のさらに奥へ進んでいくと「便所(トイレ)」と「湯殿(お風呂)」の看板が。こういう生活感のあるものが出てくると一気に歴史が身近に感じられますよね。

さすがに浴槽は再現されていませんでしたが、結構広めです。

便所の数、意外と少ないですね。当時は混雑しなかったのかな?(笑)

政庁から至善堂へとつながる十間畳廊下です。藩主の警護をする家臣の控えの間でもあるそう。

至善堂御座の間。徳川慶喜が明治元年に恭順した部屋です。広さは十畳程度でしょうか。謹慎の身とはいえ、幕府のトップが過ごすにはあまりにも狭いなと感じました。

そういえば大河ドラマでも徳川慶喜が勝海舟に説得され恭順を決意するシーンが描かれていました。恭順直前のやりとりが好きなんですよね。

海舟「おかえりなされませ」
慶喜「そちの言いたいことはわかっておる」
海舟「わかっておいでならよろしゅうござる」
慶喜「手がなかったのだ。これより他に」
海舟「仰せの通り、確かにこれよりひどい手は他にはござりませぬ」
慶喜「余が大阪に残っておれば更に大きな戦になっていた。余は大阪の町を焼け野原にしとうなかったのだ」
海舟「お蔭様にてもう…江戸の町が焼け野原に。おありがとうございます… …何故お戻りになられた!!」

慇懃無礼な様子から一転、どんな大物にも媚びずに𠮟りつける、勝海舟のキャラがいいですね(笑)。

ちなみに大河ドラマ「新選組!」での勝海舟の人物像については、「西郷・勝 ゆかりの地」の記事で紹介しています。ご興味がありましたらどうぞ。

その他、至善堂には様々な展示物がありました。ここからしばらくは画像のみでお楽しみください。

世界に誇り、未来へ伝える。

芹沢鴨もこの弘道館で水戸学を修め、剣術においても永倉新八と同じ神道無念流の免許皆伝にまでなった腕前と言われています。

ドラマでは京都守護職公用方との懇親の場で、「牛若の千人斬り」の由来について語り、秋月悌次郎(演:堀部圭亮さん)からその博識ぶりを讃えられていました。同席している土方達へ当てつける目的で公用方へアピールしたのかもしれませんが、このシーン、褒められて謙遜する芹沢がなんか可愛い(笑)。

普段は粗暴で傍若無人な振る舞いをしながら、ふとした時に文武両道で聡明な一面も見せる、そのギャップも芹沢鴨という人物の魅力だと思います。

ちなみに、茨城県南東には「旧芹沢宅」があるのですが、交通の便の関係で行くのは断念しました。残念。

さて、先へ進みましょう。…これは、家族の記念写真ですか。

おお、一番端で腕を組んでいるのが徳川慶喜なんですね。

1913年に死去。うーん、西暦で見るとかなり現代に近いです。

中庭。

中庭の横を通り抜けると…。

奥には展示室がありました。残念ながら撮影禁止でしたが、まだまだ数多くの資料が展示されていました。

さて、一通り弘道館内を巡りましたので、今度は外です。

徳川斉昭が愛した美しい梅や樹木が見られる散策路を歩いてみましょう。

「雪霜に 色よく花の魁けて 散りても後に 匂う梅が香」

芹沢鴨が投獄され死罪を覚悟した時に小指を噛み切りその血で詠んだ辞世の句です。「自分の死後も水戸の攘夷思想は残る」という意味なんだそうです。

おや…? これは…。

何やら色々な機器がありますね。

ライトアップ用の照明…かな? 

日々のメンテナンスご苦労様です!

いやぁ、実に清々しい。季節は2月。花粉症でもあるのでマスクを着用していますが、取りたくなってきます。

庭を散策しながら再び大河ドラマに思いを馳せましょう。

芹沢は会津藩預かりの立場を利用して商家に押し入り金を巻き上げるなど、かなり好き勝手やっていた。ある日、坂本龍馬の取り次ぎで対面した長州藩士の桂小五郎に芹沢は食って掛かり尊王攘夷論で意見をぶつけるも完膚なきまでに論破され、本人が弱点とする出自を突かれ、挙句には自身が提案した揃いの羽織を馬鹿にされるなど、完全に面子を潰された芹沢。

怒りの収まらない芹沢はその夜、宴の席で公用方の広沢に絡み、なだめる近藤に当たり散らした挙句、女(深雪太夫)にも手をあげてしまう。そんな最悪な空気の中で、近藤は機転を利かせて故郷・多摩の踊りを披露し、一気に場を和ませてしまう。あまりの情けなさに居たたまれなくなり芹沢は部屋へ飛び出す。その後を追う近藤。芹沢は一人涙を浮かべていたが、近藤の姿が目に入ると涙を誤魔化しながら呟く。

芹沢「俺はな、近藤さん。昔から人とつるむってことが苦手だった。誰かと何かを始めても、結局喧嘩別れだ。俺は誰も信じねえし、誰にも信じてもらえねえ」
近藤「芹沢さんのことを私は信じています。筆頭局長は芹沢さんしかいないと思っています」
~中略~
芹沢「俺はこういう男なんだよ。馬鹿で気が短くて無様で情けねえ。とんでもねえクズ野郎だ」
近藤「そうは思いません」
芹沢「おめえさんはいつだって俺と逆だ。真っ直ぐで、人を疑わず真っ正直だ」

近藤に引け目を感じていた芹沢の感情が溢れ出す。陰と陽。これまで長い話数をかけて見せてきた両者の生き様の対比。長尺の大河ドラマだからできる演出ですね。

芹沢「俺はな、そういうお前さん見てると虫唾が走るんだよ。さっさと俺の前から消えてもらえねえか」

そう言って踵を返す芹沢。その背中に近藤は一言だけ声をかける。一点の曇りもない明るさで。

近藤「芹沢さん。私は好きですよ。この羽織。」

真っ直ぐな言葉をかけられた芹沢の後ろ姿。戸惑い、怒り、悲しみ、嫉妬、羨望、諦め、希望。複雑な感情を後ろ姿だけで表現する佐藤浩市さんが素晴らしい…! 同情やお世辞ではなく、近藤の心からの言葉だとわかるからこその芹沢の葛藤がBGMに合わせてすごく心に残るシーンになっています。私の中で一、二を争う名シーンです。

散策路出口。これで終わりですね。いやぁ綺麗でした。

あ、そういえばスマホ用の望遠レンズを購入したんだった!

早速、取り付けて試してみましょう。

おおー。近い。

かなり離れた所もズームできますね。

さすがに対象物が近すぎるとブレちゃいますね。

「対試場・扁額」もこんなアップに!

…と、お試し撮影はこれくらいにして、弘道館を後にしましょう。

水戸城二の丸角櫓

せっかくなので弘道館(三の丸)の隣にある水戸城二の丸跡も覗いてみます。

大手橋を渡ると…。

大手門(復元)があります。

大手門を抜けると白壁塀(しらかべへい)がずっと続く大きな通りに出ました。

角櫓(すみやぐら)があるのですね。

水戸城二の丸角櫓(復元)です。

日差しで逆光になってしまいましたが、これはこれで青空と櫓の形のコントラストが良いかも。

偕楽園

元来た道、旧銀杏坂を下っている途中に御年配の夫婦から弘道館までの道を聞かれました。自分でも思いますがよく人に道を聞かれます。そういう顔なのかな?(笑)。でも同じ場所を目指していると分かると妙な仲間意識が生まれて嬉しくなりますよね。

さて次。弘道館から歩いて(結構距離があった)向かったのは「偕楽園」です。

水戸の偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三名園と呼ばれ、弘道館と同様、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公によって開かれました。

季節は2月。「水戸の梅まつり(第127回)」が催されていたため、この時期に合わせて来てみました。

…おや、こんなところにも見知った名前が。勝海舟、山岡鉄舟、…んーと、高橋泥舟だけはあまり存じ上げない…。勉強不足で申し訳ございません! 「幕末の三舟」と言われているんですね。

入園料(230円)を支払い、偕楽園の中へ。

偕楽園は、早春には約100品種、3000本の梅の花が植えられているそう。

園内は綺麗に手入れされており、広々としていて気持ちがいいです。

うむむ…。綺麗なのにどれもアップのピントが合わない~。

あ、やっとピントが合いました! うん、美しい。 

木造二層三階建ての好文亭。

園内をぐるりと周りました。どこを見ても梅、梅、梅と、圧巻です。違う季節に訪れてもまた違う顔を見せてくれそうですね。

その他ギャラリー

※画像をクリックすると拡大できます。

最後に

それにしても今回のゆかりの地巡りは初の宿泊(ビジホですが)込みだったので、プチ旅行みたいで楽しかったです。

特急車に乗り、

駅弁を満喫し、

夜はホテルでリラックス。今後のゆかりの地巡り遠征がますます楽しみになった1日でした。

とらせいでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました